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RCやユニコーン、ブルーハーツにジュンスカ。
ライブに行くと、いつだって客席で彼女に会えた。
控え目なやさしい声で、「こんにちは」と柔らかく笑う。
去年のクロマニヨンズは、チケットは取ったけれど、結局、彼女の具合が悪くて、代わりにうちの息子たちが行ったんだった。
思えばもう、あの頃から、病気はかなり進行していたのかもしれない。
痛いとか、調子が悪いとか、自分からはあまり言わない子だったから、
高校の時から親友だった妹も、死んでしまうような病状だなんて、ぜんぜん知らなかったと泣いた。
来月、清志郎の命日に武道館で開かれるライブは、妹が脳天気に「どうする?チケット取る?」と聞いたら、
「うーん、無理かもしれないから、残念だけどやめておくね」って答えたらしい。
亡くなった次の日、彼女のお姉さんは、彼女によく似た小さな声で
「そうやって、チケットを取ってくれると、たとえ行けなくても、その日までがんばろうって励みになってたんだよ」
と言ってくれた。
もうチケットとらなくても、そっちで、いっぱい清志郎のライブに行けるね。
清志郎も、この歌に出てくる清志郎のお母さんも、いつもやさしく笑ってた彼女も、
「もう今はどこにもいない」。
日常 |
ひでみちゃん。
昨日、死んでしまったあの子の名前を、歩きながら空に向かって呼んでみる。
小さなわたしの声は、開き始めた桜の枝の間を、ふわふわと漂う。
どこにも行き場のない名前。
でも、名前だけはまだ、確かにここで生きている。
「ビューティフルネーム」という昔のヒット曲があった。
名前、それは燃えるいのち
ひとつの地球にひとりずつ一つ
当時はこの歌詞の意味がよくわからなかった。
けれど、今は、わかる。
名前は、いのち。
先日、「サラの鍵」という、ナチス占領下のパリに生きた少女が出てくる映画をみた。
この映画には、二箇所、名前がとても大きな意味を持つ場面がある。
これから観る人のために具体的には書かないが、
その場面をみた後、突然、開いたカーテンから日が差すように、
「ビューティフルネーム」の歌詞がわたしの胸に飛び込んできた。
わたしはその意味をようやく理解した。
名前は、いのち、なのだ。
ひでみちゃん、ひでみちゃん、ひでみちゃん。
昨日、死んでしまったあの子の名前をつぶやいてみる。
声を出して、名前を呼べば、彼女はまだ、ここにいる。
映画 |
2012年、明けました。今年もよろしくお願いします。
さて、昨日の夕刊に日本人俳優、加瀬亮も出演しているガス・ヴァン・サント監督の映画「永遠の僕たち」についての記事が載っていた。
読んでみた。
「ガス・ヴァン・サント監督は生や死、善や悪といった概念を境界線で分けて見せない」と書いてある。
おお、と思った。
わたしがいつも、気になっているのも、まさにその「境界線のあいまいさ」だからだ。
とくに生と死については、自分が年齢を重ねるごとに、そのグレイゾーンの奥行きを実感する。
老いるというのは、その豊かな懐を持つ、生と死の間のグレイゾーンを旅することだ。
善と悪だってそうだ。
こちらの場合は、グレイゾーンどころかネガとポジのように、ある人にとっての善が別な人にとって悪である、なんてことはそう珍しいことではない。
気がつくと、わたしの視線はいつも、境界線のあたりをふわふわと漂っている。
イメージでいうと、海岸、窓、川辺、空、屋上。
今年は、その漂う視線のピントをゆっくりと、静かに合わせて、自分にとってのあいまいな境界線を、何かの形で表現してみたいと思う。
まずは「永遠の僕たち」を観たいな。
加瀬亮、大好きだし。
日常 |
久しぶりにブログを開いたら、また広告が出てしまっていた。
更新時だ。
孤独死一歩手前だった叔父の葬式(といっても小さな家族葬)でのこと、その後、わたしにまかされたアパートの遺品整理のことなど、書きたいことは多々あれど、とりあえず今は、夏(これもだいぶ前のことだ…)にみた映画、「キルトに綴る愛 (原題 American Quilt)」でみつけて、なんとなくノートに書きとめておいた言葉を。
Young lovers seek perfection.
Old lovers lean the art of sewing shreds together,
and of seeing beauty in a multiplicity of patches.
(若者は、完全な愛を求める。
年を経た者は、端切れを縫い合わせ
その色の重なり合いの中に美を見い出す)
青森県に「こぎん刺し」という伝統の手仕事があるそうだ。
ひと針、ひと針、模様を刺す。
その行為は、国籍をこえて、かっての女性たちにとって、自己表現であり、自分の感情と静かに向き合うための大切な時間だったのかもしれない。
映画 |
一週間ほど前、浜崎あゆみのライブに行った。
正直いうと、彼女の曲は、今まで、ただの一度も共感したことはなかった。
彼女より歌がうまい女性歌手は他にもたくさんいる。
楽曲も私の好みじゃない。
顔は確かにかわいいけれど、舞台に立つには小柄。
踊らない。(踊れない?)
舞台に立つ人間としては、決して恵まれた素材ではない。
でもわたしは、舞台上の彼女に強く引きつけられた。
彼女の中の何が、そんなに私の心を引き寄せたのだろう。
たぶんそれは、彼女の中にブラックホールのように横たわっている深い孤独、だ。
アーティスト、浜崎あゆみというのは、夢を食べるバクのように、観客の「孤独」を自分の中に取り込み、それをまた再生産することで存在しているのかもしれない、と思った。
Youtubeで「卒業写真」をカバーしている映像をみつけた。
浜崎あゆみの歌う「卒業写真」は、やはり孤独な、一人きりで完結している世界だった。
歌詞にある「古い写真の中で微笑むあなた」は、普通なら卒業アルバムに載った恋人の設定だろうが、浜崎あゆみが歌うと、わたしにはなぜか、「優しい目をして笑っている」彼女自身の卒業写真が浮かぶ。
「人ごみに流されて変わっていく私」を優しく叱ってほしいのは、有名になる前の過去の自分?
それとも、彼女がかたくなに守り、抱えてきた「ほんとうの自分」?
なんていう妄想をかきたてられてしまう。
もしかしたらこんな妄想、それこそが、確信犯的に孤独を商う彼女の仕事なんだな、きっと。
日常 |
